ふるえている。空気が、ふるえている。そんなことを考えて私はほうっとため息をついた。ざわざわとひしめきあう声たちが、教室じゅうを渦巻いている。うるさいなあ。私はカチカチとシャープペンシルをノックして、さっき配られたばかりのプリントに名前をかいた。進路希望調査表。なんという嫌な響き。
「(あー、なんだかやるせないなあ)」
……ほんと、やるせない。こうしてプリントを眺めることも、授業のおわりを気にして何度も時計をみることも。呼吸さえもが面倒くさい。そう、感じてしまうのだった。そして再びため息。はあ。
「どうしたの、さん。プリントでなやんでる?」
はは、とわらうのは前の席の栄口くん。配られたプリントの枚数が合わなくて、わざわざ先生のところにまで取りにいってくれていたらしい。そんなの、うしろの私に任せちゃえばいいのに。自分のことはいいからと、先に私にプリントを譲ってくれたのだった。
「わっ、……ありがと」
「どういたしまして。……それより、どう?書けそ?」
「ううん」
名前の欄しかうまっていないそれをちょこんと指さす。「はは、オレも」。栄口くんは肩をすくめた。いたずらっぽい笑みに私もつられて笑う。そりゃそうだよ、きみは今さっきプリントをもらったのだから。つまらないけれど、ちょっぴり気の利いたジョーク。
「……名前だけかいて提出。……なあんてことしたら、先生おこるかなあ」
「そりゃあそうだろうね。ていうかオレもそれやりたい」
「ああ、ほんと?じゃあ一緒にやろうか」
「えー!そんなんで放課後残されたらたまんないよー」
からからと彼が言う。そっか。確かに困っちゃうか。「野球部は毎日がんばってるもんねー」と私がうんうんと頷いてみせると、栄口くんはまあね、と頭をかいた。(照れてる、照れてる)(くすくす)。
「私帰宅部じゃない?だからいつも見てるよ」
「……へえ。そうなんだ」
「そうそう、栄口くんこの前ボールとるのに勢いあまって転んでたね。いたかった?」
「! ……そんなとこ見られてたなんて」
にこにことする私とは対称に、「……恥ずかしい、」と栄口くんは顔を赤く染める。勢いあまって転んじゃうってことは、それだけがんばってるってことだ。だから別に恥ずかしがらなくてもいいのになあ、なんて思いながら、私はちらりと周りをみた。ざわめく教室内はうるさい。(まあ、私たちもか)。
「ふふっ。まあ、きみらしくていいんじゃない?」
「うわーさんひどいこと言うなー……」
「そんなことないって。……あ、貸して」
栄口くんのプリントを手に取る。名前も書いていないそれに、私がクラスと番号をかきこんであげた。「ええと、ゆうとって優しい人であってる?」。心配なので一応確認。彼は困ったようにわらう。
「ちがうちがう、勇ましい人って書くの」
「え!……ごめんね、なんかイメージで」
「イメージ?」
「うん。栄口くんってやさしいから」
うへ?!彼がなんとも気の抜けた声を出す。……そんなにおどろかなくても。私はちょっぴり呆れてから、さらさらと(今度こそちゃあんと)勇人、とかき込んだ。
「…これがさんのひどくなさの証明?」
さっきの仕返しとばかりに栄口くんがそれを覗き込む。まさか。私はもったいぶってシャープペンシルをまた何度もカチカチとならし、「見ないでね」と一言添えて、今度は「将来の夢」の欄をうめてあげた。彼の夢なんて聞いたこともないけれど。
「……こんなもんかな」
「うん?」
”将来の夢:今日こそはかわいいさんのために格好良くボールを捕ります。”
プリントに書かれたをれを声に出しながら読んでいた彼は途中から吹き出し、最後に「……なにこれ」とつぶやいた。なにってもちろんきみの夢だよ、と私。
「これ、夢っていうよりただの目標じゃん」
「いいのいいの」
「っていうか自分でかわいいとか、なんで書いちゃうかなあ」
「いいのいいの。提出するの栄口くんだし」
「……さんはオレに放課後残れと?」
呆れ混じりの彼の声に、私はうんうんと頷く。するとなにを思い立ったのか栄口くんは「借りるよ」と私のプリントを取って自分の机の方を向いてしまった。ちょっと、なにする気……!
まるで作文か何かを考えるかのように、うーん、と唸る彼の姿が視界にはいる。あとは声だけ。きゃっきゃという女の子たちの甲高いものだとか、ワーッと叫ぶあほな男子たちのだとか。それが変に頭にひびいて、嫌な気分になった。それに比べて。彼の声はなんだか落ち着く。「できた」。ほうら、また。
「なに書いたの?」
「それは見てからのお楽しみ、かな」
「仕返しするなんて栄口くんもこわいねー」
「さんぜんぜん楽しんでるみたいだけど」
「ああ、分かる?」
はい、と差し出されたそれを私は素直に受け取る。うん?なになに?
”将来の夢:今日こそは格好いい栄口くんの上手なボールさばきに感動して好きになってしまいます”
「……ふはっ」
「えええ!なんでそこで笑うんだよー!」
「だって、これ……おもしろくって……!」
ブプーくすくすくす!机をだんだんと叩きながら大爆笑。「ひ・ひとの一世一代の告白をわらうなあ!」と彼は言うけれど、どうしても止まらない。あーごめんごめん、私はやっとのことで謝る。
「……なんかオレ、すごく恥ずかしいヤツみたいじゃん…」
「そだね、あはは。だいぶ思い切ったねー」
「うう、」
「……で、なに。きみ私のことすきなの?」
「……まあ、うん。……それなりには」
私に笑われたのがおもしろくないらしく、彼はすこし口をとがらせてそう言った。……そうなんだ。私は短く答えて、もう一度栄口くんのプリントを手に取る。もちろん、書くとこは決まっていた。だから。
”私も栄口くんの声とかすきだよ”
いつもよりも少しだけていねいに書いたそれを彼にかえしてやる。はい、どおぞ。
「……夢、叶っちゃったね、私」
ノイズ音
の世界は
いらない
(ざわざわ、ざわざわ)(そうしてまた、教室内の声が耳にとどく)